「がまん」

2026年3月8日 礼拝メッセージ概要
聖書箇所: ヤコブの手紙5章7~11節
牧師 山中臨在

私たちは日常の中で「我慢」という言葉をよく使います。「我慢強い」という言葉を良い意味で使うことがあります。東日本大震災の被災地の方々が困難の中でも黙々と耐えている姿を見て、世界の人々が東北の人は我慢強いと語ったことも思い起こされます。しかし実際には、長く続く苦しみの中で「いつまでも我慢はできない」という声があることも事実です。

「我慢」という言葉は、もともと仏教の用語で、自分を高くして他者を見下す高慢さを意味する言葉でもあると言われます。一見へりくだっているように見えても、心の中では他者を批判し、自分を高く置いてしまうことがあります。表面的には身を引くように見えても、その背後に自分を高くする思いが潜んでいる場合があることが語られました。

それに対して、聖書が語るのは「我慢」ではなく「忍耐」です。ヤコブの手紙は「主が来られる時まで忍耐しなさい」と勧めています。この忍耐とは、ただ苦しみに耐えることではなく、神の約束を信じて希望をもって待つことです。

ユダヤ地方というのは、年に雨の時期が2回、秋の雨と春の雨があります。この秋の雨がないと種は芽が出ない、そして春の雨がないとその芽が成長して穂がならないのです。原文では、秋の雨というのは第一の雨、春の雨は第二の雨となっています。第一の雨というのはイエス・キリストが来られた時のこと、第二の雨というのはイエス・キリストが再び来られること、つまり再臨です。農夫が秋の雨と春の雨を待ちながら大地の実りを期待するように、私たちはイエス・キリストが再び来られるという約束を信頼して待つように招かれています。すでにキリストがこの世に来られたという約束が実現しているからこそ、神の約束は確かであると信じて待つことができるのです。

また聖書は、苦しみの中で互いに不平を言い合うのではなく、祈ることを勧めています。「苦しんでいる人は祈りなさい」と語られているように、私たちは自分の力では解決できないことを神にゆだねることができます。雨を降らせるのが神であるように、私たちの人生の出来事も神の御手の中にあります。

メッセージの中では、牧師自身もまた「我慢」をしてしまい、他者を責める思いを抱いていたことに気づかされた経験が分かち合われました。聖書の言葉は他人に向けられるだけでなく、まず自分自身に語りかけてくるものです。聖書の言葉は私たちを責めるためではなく、希望へと導くために語られています。

「恐れることはない。わたしはあなたと共にいる」と神は語られます。どのような困難の中にあっても、神を信頼して祈り続け、主の約束を希望をもって信じて歩んでいきたいと思います。